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Japanese
Original Title
招宴の火
Simplified Chinese
Title

再び応接間に通されたルークは、ぼんやりと窓の外を眺めていた。

あれから食事は喉を通らなかった。辛うじて残されていた食欲は、全てよからぬ話が持って行ってしまった。

(とはいえ、面倒事を具体的に知ることが出来たのは収穫だった)

その面倒事を更に面倒な人物を使って屋敷に招いた人物は、従者に呼ばれて食事の
最中
(
さなか
)
に席を外した。
本来なら屋敷の主から叱責の一つは受けそうなものだったけれど、今回ばかりは事情が事情。マルズィエフは気分を害すどころか快く推奨した。
詳細が分かり次第報告をしろという要求が行動に含まれていたのを、その場にいた誰もが理解をしていた。
その彼は、先刻からずっと、冴えない表情を浮かべている。

「殿下、今一度、城へお戻りくださりませぬか。あの
死神
(
ターリク
)
めを恐れているのであれば、我が屋敷にてほとぼりが冷めるまで御隠れあそばされませ。その間、我々が殿下の無実を晴らし―――」


「無理だな、それは」

ルークは、マルズィエフの言葉を遮った。

「魔族であるという事実を覆せるような証拠が無いのであれば、戻っても意味が無い。殺人罪と魔族の嫌疑に、逃走罪が新たに加わっただけだ。仮に屋敷に滞在するにしても、今度は自らの身の置き場と、隣国との問題に頭を痛めることになるだろうし、なにより、俺を逃がした兄上の立場も悪くなる」


「殿下が魔族では無いという証明なら、竜にさせればよいのです。そこの娘の言う通りであれば、殿下の嫌疑そのものに疑問を感じる者も出てきましょう。殿下の身の潔白さえ証明できれば、幾つかの問題は片付くのです。もしかしたら、我が国の窮状すらも!」

尚も食い下がるマルズィエフへ、ルークは首を横に振った。

「我が国と、我が国を取り巻く現状を知ってしまった後では、大人しくしていろと言われても無理だ」


「……頑迷な」

マルズィエフが吐き捨てた。その表情には、この皇子には分らぬのだという諦めと、それとは別の何かの感情が現れている。
顔を真っ赤にして退出していくマルズィエフのを眺めながら、ルークは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。

(もし、父上が生きていればアル・リドの駐留部隊に慌てず、多少の暴力が伴った平和的手段で解決できたのかもしれない)

しかし、その父は、既に亡い。

父の最期を、息子として看取ってやることが出来なかったのが、どうしようもなく、哀しかった。
城を抜け出した時、死に目には会えないだろうと覚悟はしていたのに。

いざ想像していた通りになってみれば、こんなにも苦しいとは。

「……ルシュディアーク第二皇子殿下、その、今後の事なんですが」


「その呼び方は、止めてほしい」

遠慮がちに伺ってくるウィゼルに、ルークは、ばつの悪そうな表情を浮かべた。

正体を知れば、ウィゼルが態度を改めてしまうのは、分っていた。今まで軽口を言い合えるような仲だったぶん、居心地が悪くてたまらない。

「俺はもう皇子じゃない。頼むから、今までのように俺のことは、ルークと呼んでほしい」

ウィゼルが口を閉ざした。肯定とも否定ともとれる沈黙は、ルークが余計な思い煩いをするには十分なほどの長さだった。

(身分や立場だけで、相手への態度を変えるような人ではないと思っていた)

だから、ウィゼルの事を人として、少し尊敬していた。

(でも、皆と変わらなかったんだな)

こういう態度をとられるのは、今に始まったばかりではなかった。

既にジャーファルという前例がいる。ルークにとって、さほど珍しい事では無いのに、胸が痛むのはどうしてだろう。

ウィゼルが、戸惑うように口を開いた。

「どう、扱ったらいいのか分からないのよ。その、皇族と話すのは、初めてだから……驚いたの。今までその、偉そうな糞餓鬼だって思ってたから」

「偉いから、偉そうにしていたんだ」

ルークは厳しい表情をしていたけれど、その声色には、何処か楽しげな響きが含まれていた。それへ、ウィゼルは苦笑した。

「お城の中でも、そんな調子だったの?」


「皇子なんだから、態度が小さくてどうする」

ルークが、呆れ顔を浮かべた。

「国を背負う立場なんだ、相応の態度でいなければ皆に示しがつかない。偉い奴が弱気だと、不安になるだろう?」

だからな、と、ルークは言葉を区切った。

他人に漏らしてもいいものか。これは、ルークの内面を暴露するのに近かった。

「どんなに嫌でも、偉そうに振る舞い続けなければならなかった」

たとえ、それが
傲慢
(
ごうまん
)
極まりないものだとしても。

「気安く人に接すれば、見下される。気位高くいれば、今度は、ごまをすったり、不満を持ったりする奴が現れる。だからそういう奴を寄せ付けないよう、皇子らしさも損なわないよう、常に言動に気をつけていなければいけなかった。立場上相容れないのは分かっているつもりだ。皇子と民草じゃあ、天と地ほども違うからな」

だからこそ、ウィゼルやアサド達といた時は、心安らいだ。

自分の立場を明かさなくても良い。都合の悪いことも、彼らは突っ込まない。ルークが、ルークとしていられる。そんな人間関係に、どれほど心癒されたか。


「……分かっている、つもりだった」


ルークの目に、哀しみの光が浮かんだ。
どれほど素晴らしい人たちに出逢っても、自分の出生も立場も変えられない。
ルークのいた環境が。人間関係が。ルークを年相応の子供としてではなく、皇族としての振る舞いを求めている。そして、ルークの中の皇子としての部分もまた、それでは駄目だと叫んでいる。

”そんなふうでは、カダーシュも、誰も守れない!”と。

生い立ちが、形作ったものだった。
我欲のまま振る舞う者、強者に媚びへつらい、おこぼれに預かろうとする者。
強者におもねり弱者を理解できぬまま切り捨てる者。人では無い、人の形をした城内の化物達のなかで、ルークは必死に生きてきた。

心無い大人達による
義弟
(
カダーシュ
)
への仕打ちを間近で見てから、ルークはより一層、皇子らしくあろうとした。

皇子として相応しくないという評価が、どれほど恐ろしい結果をもたらすのか。
想像し、理解した途端怖くなった。産まれてきたことも後悔した。だから怖れを克服するために、ルークは自らを変えていった。
自分が皇族として相応しい人間になれば、化け物たちから自らとカダーシュを守れるかもしれない。
幼かったルークは、そう信じ込んだ。信じたら直ぐに行動へ移した。
尊敬する大人達の考え方と言動を真似、ルークも彼等のように在ろうとした。
けれど、そうするごとにルークの心は苦しくなっていった。


「疎外感なら、私にも覚えがあるわ」

ウィゼルの表情が哀しげに曇る。

「エルフのくせに
竜の民
(
ホルフィス
)
を名乗っているから、奇異や好奇の目に晒される事なんてよくあったの。
竜の民
(
ホルフィス
)
を騙る悪党とまで言われた事だってある。だから小さい頃は……皆と違う事を恐れてた。ルークと私じゃ、ちょっと立場が違うけど」

遠い昔を懐かしむかのように、ウィゼルは目を細めた。

「でも、皆が皆、同じであるはずが無いんだわ―――だって、生き物なんだもの」


「生き物?」

「動物も人間も、外見や性格、好みや歩く速さも違うでしょ。思いの伝え方だってそれぞれ。同じものなんて、なにひとつ無いのに、皆と違うから寄ってたかって虐めたりするのも、皆と違うことに悩んで恥に思うのも、可笑しな話じゃない?

皆が違うからこそ、これだけ沢山の容姿や、想いがある。全く同じものなんて何一つないからこそ、こうして補いあいながら生きてゆけるわけでしょう?

だから皆と違う事に対して卑屈にならなくて良いのよ。それより、人と違う自分が出来ることを考えてみたらって……兄さんの受け売りだけどね」

押し黙ったまま話に耳を傾けていたルークが、意外そうな顔をしてみせた。

「兄がいたのか?」


「歳の離れた兄よ」

ウィゼルが肩をすくめて苦笑した。

「優しいのだか無神経なのだか解らない。何を考えているのかもさっぱり。掴みどころの無い人だけど、面倒見のいい人ではあったわ。保護者気取りで上からものを言ってくるのは頂けなかったけど」


「俺にも兄がいるが、ウィゼルの兄とそっくりだ。何処も一緒なんだな」

イダーフの顔を思い出したルークは、微かな胸の痛みを覚えていた。

(どうせなら、ウィゼルの兄のような、血の通った言葉を投げかけてくれる兄がいて欲しかった)

そうであれば、この気持ちも楽でいられたのかもしれない。

「お互い苦労するわね」

ウィゼルが、ばつの悪そうに顔をしかめた。

「でも、社会には、やっぱり上に立つ

(
おさ
)
が必要なの。私が人によって接し方を変えないのは、アサドの言う通りだけれど、それは個人対個人だからよ。だけど、王侯貴族となると勝手が違うの。それなりの立場の人に、それなりの礼でもって敬意をあらわさないと。

礼を失する行為は、

(
おさ
)
だけじゃなくて、

(
おさ
)
がまとめる社会の全てを否定することに繋がりかねないから。そんなことされたら、誰でも怒るわ。

ルークは生まれつき

(
おさ
)
の立場に居たから気にしないでいられたのかもしれないけど、私はそうじゃない。

(
おさ
)
にまとめてもらう側の人間なのよ」

そこは分ってほしいと、ウィゼルの言外の意を汲み取ったルークは、沈思した後、たっぷり半刻おいて頷いた。

「でも、貴方の言い分は何となく理解したわ。

(
おおやけ
)
以外は、今まで通りルークと呼んでいいのかしら、皇子様?」


「喜んで」

にんまりとするウィゼルに、ルークもまた、初めて笑みを返した。


「それで、今後の事なんだけど……誤解しないで。身分とか、立場が問題だから一緒に居られないとか、そういうのじゃなくて―――ねえ、やっぱり、アル・リドに行くの?」

遠慮がちに訊ねたウィゼルの顔には、賛同しかねるといった類の色が、ありありと浮かんでいた。

「……ウィゼルは
荷運
(
チャスキ
)
びだったよな。国境付近の事を何か知らないか?」

「悪いけどアル・リド方面には、最近行っていないのよ。でも、ジャーファルと同じような話なら同業者から幾つか聞いたかな。アル・リドの国境付近には頼まれても近づくなって。殺されるから……」

ルークが呻いた。ウィゼルとジャーファルの話は、駐留軍を撃退してくれているかもしれないという、微かな望みを綺麗さっぱりと打ち砕いてくれたものだったからだ。

(国境付近の集落は、すでに壊滅しているだろう)

駐留軍の行動次第では、更に被害が拡大しているかもしれない。仮定したのは、ルークの思い込みではなかった。戦争は、攻めるなら弱く、自分達に利点の有る箇所から攻めはじめる。それが戦争の定石だからだ。
(この国を攻めるのなら、まず、国境付近の
遊牧民
(
ベドウィン
)
たちを始末しなければならない)

彼らは騎馬と弓を扱えはするけれど兵ではない。民だ。腕に覚えはあるけれど、王国軍の兵士を相手取るには荷が勝ちすぎる。


荷運び
(
チャスキ
)
達が国境へ近づくなと噂しあうほどだ。相当酷い
有様
(
ありさま
)
なんだろう。とすれば、相当規模の軍勢がいるはず。でも、俺達にはいままでそんな情報が入ってきていなかった。何故だ?)

大軍勢であれば目立つ。それだけ人の口にも上るだろう。けれど、それが無かった。国境から青の都への距離を考えても、遅すぎるように思えた。

「直接見て来た者はいたか?」

「いたには、いたらしいけど、誰も戻ってこなかったみたい。多分、その」

続く言葉を察し、ルークが嫌悪に顔を歪ませた。

「殺されたんだと思う」

アル・リド王国側が有利に戦争を進めるための、口封じ。宣戦布告が無いのもそのためかと、ルークは納得した。
アル・カマル側の目撃者を殺してゆけば、王国軍側の規模と位置を悟られることはない。
侵攻の際の戦力も削がれることも無いだろう。
やり方としては残忍極まりない。けれど、一番簡単な方法でもある。

発見者を殺める際、一定数以上の人員と武器があれば良いだけで、特別なことは何一つ必要ないのだから。勝敗は一瞬で決するだろう。なにせ相手は少数だ。大多数で囲ってしまえば、どれほどの手練れでも敵うまい。
戦争というものは先に仕掛けた方に有利に物事が運ぶ。それを、相手はよく分かっているのだ。
ルークは、苦い顔で腕を組んだ。
不味い状況だった。


アル・カマル皇国はいま、目と耳を隠されているようなものだ。

攻めてきたアル・リド王国軍の規模も、布陣している位置も、どんな兵がどんな武器を持ってきているのかも分からない。これがどれだけの不利をもたらすものなのかを、ルークはジャーファルから教えられていた。

(宣戦布告状の一枚でもあったのなら、準備を整えられていたはずなのに)

攻められると分かっていれば、国境付近にいる兵士達の心も随分と違ったものになっただろう。
予期せず戦争の始まりを軍鼓と敵兵の矢で知る羽目になった兵士達は、今頃泡を食っているに違いない。
そんな状態で王国軍を食い止めるなど無理な話だった。

(いや、だが少し待て。目撃者を全員殺して回るのは、少し無理があるのじゃないか?)

のべつまなく探すのか?
あの、国境付近に広がる砂漠を?

隠れられる場所がないのなら、目撃者を全員殺せるだろう。けれど、岩山も砂の丘も、遺跡の残骸も散乱している。隠れられる場所は幾つもある。それに、
荷運び
(
チャスキ
)
に注意を促すことが出来るくらいには、情報が回っている。ルークの目に、微かな精彩が戻った。

(まだ、打てる手はある!)

ルークは、急がねばならないと思った。そして、こうとも思った。
噂を流すことが出来るくらいの余裕が、まだあるのだとしたら、打てる手は幾らでも残されていると。

ルークの脳裏に、国境付近に居を構えている友の姿が浮かんだ。

(あいつであれば、もしかしたら……)


はっとしたルークに、ウィゼルが厳しい眼差しを向けた。


「余計なことかもしれないけど、貴方がすることじゃないわ、大人しくここに居た方が良いと思う」

「他人任せには出来ない」

皇宮や屋敷にいては絶対に手遅れになる。そうなる前に、早く手を打たなければならない。

一刻も早く屋敷を抜け出す必要があった。それへ、ウィゼルは顔をしかめた。

「あのね、ルークが一人で出来るような事じゃないから止めているの。ルークがアル・リドに行く、行かないで済むような話じゃなくなってるのよ?」

もう皇子でもないのにと言いたげな視線を、ルークは見なかった事にした。

「知っている。何となく、予想もしていた」

「だったら馬鹿な考えは止めなさいよ」

「マルズィエフもジャーファルも信用して、全てを預けろと? 冗談じゃない、あいつらは他国と繋がっているんだぞ、任せていられるか!」

誰しもそうだ。止めろという。しかし、本当に止めてよかったことは一度も無かった。

(人任せにしていたら、今度こそ”本当に手遅れ”になってしまう!)

ルークは苛立ったように扉へ視線をやった。がっちりとした木造の扉があった。その扉に、親指を挟めるくらいの隙間がある。そこから、影が見え隠れしていた。誰かが立っている気配を感じて、ルークは眉をしかめた。気配を探るように隙間をみつめる。そっと、扉が閉まった。そして、重い物がはめ込まれた音がした。

「―――ウィゼル、気付いたか?」

「何を?」


「あの禿頭に閉じ込められた」


何度も押し開こうとしてもびくともしない扉へ、ウィゼルは忌々しげに鼻を鳴らした。

「……あのおじさんなら、やりかねないって思ってたのよ」

「同感だ」

ルークが憮然とした面持ちで扉を軽く押す。鍵でもかかっているのだろう。掌を伝い返ってくる感触は、固い。

「……ウィゼル、これからやることに目を瞑っていてくれたら、大分助かる」

「何をするつもり?」

ウィゼルが怪訝気にルークへ視線をやる。

何かを期待するというよりは、また面倒な事を起こさないでほしいといった類の表情を浮かべていた。

「開かない時は、大抵こうすると開くんだ」

扉が外れてしまいそうな程の凄まじい衝撃、揺れる扉に舞う埃。天井から砂くずのような埃がパラパラと降ってくる。ルークが渾身の力で蹴り飛ばした扉は、靴跡をつけたまま閉じていた。
足の痛みに悶えているルークへ、ウィゼルが呆れたような声を上げた。

「……冷静になったら?」


「……城のは、開いたんだ」

「皇族って、もう少し上品だと思ったんだけど?」

「品があるなどという思い込みは、今すぐ捨てるべきだ……」

半泣きで言われても説得力に欠けると、ウィゼルが呆れた表情を浮かべた。

「脱出するならもうちょっと考えるべきね。暴れて脱走でもしてみなさいよ、屋敷の警備をしている奴等に取り押さえられるわ。それに、あのシルビアに出くわしたら、もっと怖い目に遭うかもしれない。

だったら、穏便に、おじさんが来るまで待つっていう方法も――――」

「それだけは駄目だ。待っているんじゃ、らちが明かない。俺達がこうしている間にも、大勢の者達が殺されているかもしれないんだぞ」

「……ここから国境までどのくらいかかると思ってるの。一日遅れても、さして状況なんて変わらないわよ」

「あのな」

ルークが半眼で振り返る。険しい表情のウィゼルが、そこに居た。

険しいというよりは、怒りだ。感情による怒りというより、どちらかと言えば理性からの戒告に近い。
直ぐに険悪になってもおかしくない乱暴な物言いだったが、ルークはそれを、冷静に受け止めた。

「頭に血が上り過ぎてる。ちょっと考えてみれば分かることも、今の貴方は分からなくなってる」

「俺は冷静だ」


ウィゼルが、窘めるように首を振った。

「ルークにわざわざ話したのは、戦争をルークに止めてほしいからじゃない。貴方がアル・リドへ向かう事で、アル・カマルは抵抗する手段を失ってしまうから、止めてほしいって言ってたのよ。だって、ルークは皇子なんだよ。立場が無くなったからって、貴方に価値がなくなったわけじゃない。むしろ、敵にとっての利用価値が増すの。対立している国から、のこのことやって来た貴方から情報を吐かせる方法なら、いくらでもあるのよ」
「―――じゃあ、誰がやるんだ?」

誰が、ベドウィン達を助けられるんだ?

こんな状況を知っているのは、自分とあの場に居た三人、そして、兄だ。

イダーフは動くだろうか。いや、動いて然るべきだったとルークは思う。少なくとも警戒くらいはして然るべきだと。

しかし、現実を見ればどうだ。警戒どころか、駐留軍の略奪行為すら知らなかった可能性がある。

「俺が個人的な感情だけで動いていると思ったら大間違いだ」

ぎらつく刃のような声でルークが言い放った。ウィゼルが眉を上げた。

「へぇ、そう」

氷のように冷たい声がウィゼルの口から洩れた。

ルークが初めて聞く声だった。その中にどんな感情が渦巻いているのか、考えなくても分かっていた。ルークの無理解に怒りを覚えている。そういう類の声だ。重苦しい沈黙と、身を裂くような冷たく鋭い空気が二人の間を流れる。窓辺から差し込む夕日が存外に眩しく、ルークが目を細め、長い溜息を吐いた。
「……どちらにせよ俺はここにいる気はない。ウィゼルだって他人事じゃあないぞ。身柄を拘束された後、どうなるか分かったもんじゃない」

「私だってこんなとこに居る気はないわよ。でも、一晩位でどうにかなる訳じゃあなし」

「それこそ問題だ。アサドとカミラが心配し始める」

「あの二人は私の保護者でもなければ、家族でもないわ」

「それでもな、心配する。家族じゃなくても」

恐らく、何日も街中を探し回る位はする。面倒見のいいアサドは、やるに違いない。

「……まぁ、そうだけど」

子供扱いされるのは納得がいかないけどと、ウィゼルが小声で呟いた。

「それから、異性と同室で、最悪一晩明かすことになるかもしれない事についてだ」

不意に、ウィゼルから表情が消えた。

「私に手を出したら、解っているでしょうね?」

分かり切っていると、ルークが厭そうに頷いた。

そういう状況になったら、ウィゼルは戸惑いなく

(
アルル
)
を呼ぶだろうし、

(
アルル
)
は忠実に主の命令を実行する。

アルル
を呼ばなくても、弓矢で脳天をぶち抜く位は、平気でやるだろう。
―――ウィゼルはそういう女だ。

本音を言えば、男としての情動を揺すぶられるところはある。

彼女の美しい容姿に加え、負けん気の強い性格は、ルークが今まで関わった異性の誰よりも、魅力的に映っていた。しかし、実際に行動を起こそうという気は、彼女の行動のせいで、完全に削がれていた。
「誰が手なんか出すか」

「否定されると、女としてはちょっと、自身が無くなるわね」

「……何かしてもらいたいと?」

「そんなわけないでしょ!」

「安心した。俺も父上のような愚は起こしたくないし、事実無根の噂もされたくない」


「そうね、妙な噂は立てられるべきじゃないわ、不本意だもの」

言葉とは裏腹に、ウィゼルの瞳には、微かな興味を示す光が宿っていた。
何かを言いかけようと口を開き、逡巡した後に再び口を閉ざした。

「それにしても素晴らしい眺めね―――思わず飛び降りたくなっちゃう」

窓際に立ち、眩しそうに切れ長の
双眸
(
そうぼう
)
を細める。

窓枠で区切られた景色と、色素の薄い彼女の髪と肌が夕日の色に溶け合い、まるで一枚の絵画のようだった。

「飛び降りたとして、着地はどうする」

口から吐き出したのは、ウィゼルや景色への賛辞では無く酷く現実的なもの。
浪漫の欠片すらないそれを、ウィゼルは表情も変えずに受け入れた。

「二階だったわね、ここ」

窓の傍に木の一本でも生えていれば、木を使って屋敷から脱出できるかもしれないと思っていたけれど。思うほど現実は甘くなかった。脱出を望めるような木は近くに一本も生えていない。
ウィゼルが一瞬、眉間にしわを寄せ、やがて諦めたように溜息を吐いた。

「シルビアに連れてこられた時点で察するべきだったかも」

 ウィゼルが半眼でルークを睨んだ。

「こうなったのも、ルークがホイホイついてきちゃうから……」


「ウィゼルが後先考えずに行動するからだ。俺のせいにするな。どうする、まさか下の生垣に飛び込むつもりか?」


「おおむね、貴方の言う通りよ。正確にはちょっと違うけれど―――」

窓枠と生垣を交互に眺め、数秒だけ影を凝視する。そのウィゼルの口から、「まだ余裕があるわね」という小さな呟きが漏れるやいなや、窓辺にかかっていた日除けの紗を引きはがし始めた。

「何をやっているんだ」


「繩を作るの」

日除けだった布達を無造作に放り投げながら、ウィゼルが気楽な声で応えた。ルークが理解しがたげに首を傾げた。部屋中の紗布の日除けを切り裂いて繋げても地面までは届かない。飛び降りるにしても高さがあるのでは怪我をしてしまう。困惑しているルークへ、ウィゼルは当然のような面持ちで声を上げた。

「怪我をしないだけの高さまで繩を伝って降りられたらいいのよ。そうしたら、後は生垣を着地台代わりに飛び降りられるでしょ。紗布だから強度はちょっと心配だけど、窓から直接飛び降りるよりは良いはずよ。一緒に逃げるつもりなら、ルークも手伝ってちょうだい」
服の内ポケットから短剣を取り出し、ルークへ手渡した。

「それで布を裂いて一本の繩にするの。落下の勢いを削げれば十分だから、出来る限りしっかり結んでおいて」

そう言うと、ウィゼルは再び日除けを取り払う作業に没頭しはじめた。

渡された短剣を手に、ルークはウィゼルの後姿から伸びる影に目を細めた。

(影が長い。日没まで、時間がない)

ルークは床に散らかった日除けに手を伸ばした。
日中の気温によって温められた布はほのかに暖かく、軽く撫でるとさらさらとした実に気持ちの良い感触を返してくる。明らかに高価そうな布だった。

(切り裂くにはもったいない)

一瞬の躊躇いの後、ルークは布へ刃を滑らせる。布は面白い程よく切れた。よく切れるのは良いが、少し握っただけで手が疲れた。原因は柄にあった。

大抵の刃物の柄は、五本の指と掌で握る為に作られている。角は丸く、握りやすいよう、楕円の形をしていた。武器としての用途を求められている刀剣類は特に、敵の額をかち割るという使い方が出来るよう、柄の先の剣首の形状は尖っている。

ウィゼルから渡された剣は違った。
柄の部分は角ばっていて薄い。剣首は平面で、刃のついた釘のような形をしていた。三枚目に取り掛かろうと日除けを手にしたルークは、早くも指の疲れを感じ、手を止めた。

「断ち切ったら、半分こっちに寄こしてくれる?」

 日除けをすっかり取り払ってしまったウィゼルが、ルークへ左手を差し出す。
 白く細い指は、節々が固く、武器を握る者の手をしていた。

「二人分の体重を預けるにはこころもとない。布を二重に繋げるのはどうだ?」


「悪い提案ではないけど、布が足りないわ。短くちゃ意味が無いのよ」

ウィゼルは器用に布の端同士を結び、勢いよく引いた。布が小気味いい音を立てる。

ルークも、見よう見まねで同じように結ぶ。ぐちゃっとなった。
口で説明された時は簡単なことだと思っていたものだけれど、実際にやってみると非常に難しかった。
まず端と端を結ぶのに苦労する。結び付けても今度は固く結びつかない。悪戦苦闘する姿にウィゼルが苦笑を漏らした。

「私がやるから貸して。ルークは、今のうちに脱出経路を考えて」


「脱出経路といってもな……」

 幼い頃に幾度か父に連れられてマルズィエフの屋敷を訪れたことがあっただけで、隅々までは把握していない。それにと、ルークは腕を組んだ。

「街の方はどうする。俺は詳しくないぞ」

「そっちは良いわよ、道は私が知っているから。問題は屋敷の中。貴族のお家なんて私知らないもの」


「窓から出るんだから、頭を悩ませる必要もないぞ?」

屋敷の中を逃げ隠れしながら脱出する必要が無いのだから、道案内までは要らないだろうと、ルークが苦笑する。

「兵士よ、兵士。見張りがちゃんといるんでしょう?」

ウィゼルが器用に最後の布を結び付け、手を止めた。彼女の手元には、二人の倍以上もある背丈の縄が出来ていた。

「見つからないように逃げるしかない」


「でも、見つかったら? さっきはルークが皇族だからって理由で武器を取られずに済んだけど……逃げ出すときは皇族だから大人しく見送ってあげようって配慮はしないわよ」

問題はそこだった。
主であるマルズィエフからして、二人を外に出したくないと考えているのだ。逃亡を許してくれるとは思えない。恐らく、兵士達と剣を交えることになるだろう。

二人が屋敷から逃げ出すのを見越し、見張りの数も増やしているだろうから、見つかるという前提で動くべきだ。

「――――覚悟はしておく」

表情こそ現れなかったが、その内心は苦渋に満ちていた。
ルークは、兵士達に剣を向けたくなかった。

血を見るような事態だけは避けたいという思いともう一つ。
マルズィエフの存在だった。


(マルズィエフに手を上げるのは得策ではない)
マルズィエフが後ろ暗い事の一つや二つをやらかしていたとはいえ、何かがあった際の盾は無くしたくない。自らの行動が原因で目も当てられないような結果を導いてしまうというような行動だけは、ルークとしては控えていたかった。

「見つからないように逃げるのが最優先だ。正面切って兵士達を相手にしても、俺達じゃあ勝ち目はないと思った方が良い。奴等は、戦いの専門家だ」

ウィゼルから手渡された繩を、重そうなソファーの足に括りつけながら、ルークは気難しい表情で言った。

「生垣に隠れて、泥棒みたいにこそこそ隠れてやり過ごすのね」

不満げに口を尖らせるウィゼルへ、概ねそんなところだと、ルークは肩を竦めた。

「それが自分の身を守るための、最良の方法だ」

ルークがソファーから伸びる影に視線を落とす。
影が長い。影の輪郭も朧げで、心なしか夕日の色も褪せている。

「――――もうすぐ日没だ。時間が無い」


行動するのはいつも闇と一緒だった。

牢獄から脱した時も、アサドに助けられた時も。そして、今も。前途多難、お先は真っ暗。
一歩でも間違えれば崖に足を取られて落ちかねない。

先に降りたウィゼルを眺め、ルークはふと、黒々と蟠る闇に自分の境遇を重ね合わせていた。

(今後の事など予測出来ないような状況の中で、よくも生きていられた)

もしかしたら、運の神にでも気に入られているのかもしれない。もっとも、運は運でも、宜しくない方の運だ。先行きが暗い割に、死なずに生きていられているのだから。

不意に、眼下にわだかまる薄暗い闇の中から影が立ち上がった。

その影がルークへ手を振る。ウィゼルだった。

彼女の手には、黒々とした枝のような得物が握られていた。ルークが影へ向けて一つ頷くと、慎重に繩を伝い、屋敷の壁を足掛かりに降り初める。

繩がきしんだ。

布の材質が薄いせいで強度に不安を感じていたが、ルークの体重で破れてしまうなどという事は無かった。微かな安堵と、足元の気配に注意を払いながら生垣へ飛び降りる。
細い枝と草が騒がしい音を立てて派手に散らかった。

「手を貸そうか?」


「要らない。一人で立てる」

驚きはしたものの、怪我まではしていなかったし、何より、闇の中で飛び降りたのが怖かったという本心をウィゼルに知られてしまうのは

(
しゃく
)
だった。

手の震えを誤魔化すように早々と起き上がると、既に先行していたウィゼルが面白くなさそうな表情を浮かべ、塀を背にしてルークを待っていた。

「……貴族が高い塀が好きなのを忘れていたわ」

ウィゼルが見上げた先には、自分達の身長の三倍もある塀が屋敷の向こうまで続いていた。

「俺達が飛び越えるのは無理だな。竜なら飛び越えられるかもしれないが」


「アルルは飛べないわよ。塀を破壊するので精いっぱいってところね……呼ぶ?」
「迂回する」

逡巡する間もなく、はっきりと言い放った。他に屋敷から出る道はあったかと思案しながら、ルークは胸中で首を傾げていた。
人影が無さすぎた。

生垣にあれだけ派手に飛び込んだのに誰も来もしないのは奇妙に思えた。
気が付いていないのなら、間抜けにもほどがある。

「待って」

唐突にウィゼルがルークの服の裾を掴み、厳しい表情を浮かべた。

「―――いるわ」

暗がりの中で、ウィゼルが目を細めた。

「二人かな、多分」

暗がりの中で長い耳を器用に蠢かせ、視線は小さな広場へ向けていた。

「簡単にはいかないか……なら北側方向へ逃げる。一番近い退路は、」

背後から聞こえてくる足音を耳にしながら、ルークが苦々しい表情を浮かべ、言った。

「これからやってくる奴等の後ろだ」


「その他は?」


「残念ながら」

挟まれた。


ウィゼルも分かっていたのだろう。暗がりの中で彼女の表情が強張るのが、手に取るようにわかった。

ルークが前方からやってくる見張り達を一瞥した。見るからに軽装の男だが、腰に半月刀を一本ずつぶら下げ、こちらに歩いてくる。二人に気付いている気配は無い。

幸いなことに、薄い闇が二人の味方をしてくれていたようだった。

「潰すしかないわね」


「通り過ぎるまで待つという選択肢はないのか?」

ルークが胡乱気な視線をウィゼルへ向けた。

竜を駆るといい、弓で暴漢を叩き伏せるといい、今度はこの発言。外見通りの美しく儚い少女だから、中身も慎ましやかだろうと勝手に想像してしまっていた。
間違っていた。

「暗闇の中でじっと待つのも良いかもしれないけど、まだ明るいわ」


「明るい?」

ルークの目には、十分な闇が広がっていた。

目視で標的を発見するには、難が生じてきているのに。ルークが不思議そうに、首を傾げた。

「俺には、十分暗いように思えるが」


「ルークは夜目が利かないから仕方ないけど、十分見えている範囲だわ―――ひょっとして、怖い?」


「いいや。怖いというより増援を呼ばれたら面倒で」

兵士だからしぶといんだとルークは付け加えるように囁いた。

「やり過ごすしかない。今ここで戦うのは、自殺行為だ」

息を殺して壁に背を預けた。右手は剣の柄を握っていた。
前方からやって来る兵士の歩みが遅い。
一歩、一歩が、まるで亀の歩みのようで堪らない。彼らが通り過ぎるまでの数分間、壁に隠れて待つという、たったそれだけの行為がルークには苦痛で仕方なかった。

(俺達に気付くな、早く通り過ぎろ。そして、さっさと何処かへ行ってしまえ)

長く伸びる影へ腹の内でそっと吐き捨てる。おもむろに、ウィゼルが顔を上げルークを一瞥した。聞こえてしまっただろうか。

(声には出していないはず)
泡のように浮かんだ思いは直ぐに否定された。とがめる声も非難がましい視線も無かった。壁の向こうから影だけが二つ、ゆっくりと近づいてくる。

前からやって来る影は長く、後方からやって来た影は、やけに小さかった。

「おい」

影が発した声に、ルークはぎくりとした。狼狽したルークからの視線をウィゼルが流した。
返答の代わりに、彼女は目を瞑って応じる。胸中穏やかでは無いルークとは対照的に、ウィゼルは弓弦に手をかけたまま、銅像のように座り込んでいた。

「ここは入ってきていい場所じゃない。立ち去んな」


「悪いネ、人探しをしていタら迷ったんだ」

なんて耳障りな声なんだろう。
小さな影が発したものは、人間のものとは思えない酷い声だった。
まるで言葉を覚えたばかりの鳥が人の声真似をしているような。意志の疎通をする為だけの目的で無理やり喉からひり出されたような声を、ルークは一度も聞いた事が無かった。

(そもそも、これは人間の声だろうか)

いや、違う。むしろ、血の通った生き物では無い何かだ。
では、その”何か”は”何”なのだろう。


ルークが僅かに顔を上げようとするのを、ウィゼルが小突いた。非難がましい目つきで首を振る。動くな。声も出すなという合図だった。

「シルビアを探しテいる」

小柄な影が、あの女の名前を難なく発した。

「あの姉ちゃんの連れか?」

男の声色が、若干、変わった。
変化は微々たるものだ。
他者の感情に敏感な人間でなければ気づかない類のもの。しかし、ルークは気づいていた。

シルビアか、あるいは影に対する不信。いずれにせよ、この兵士はどちらに対しても、良い感情を抱いていないのは確かだった。

「彼女はドコに。イリスが来たと言えバ解る」

イリスと名乗った影は、知らないふりをしているだけなのか。明確な疑いの眼差しを向けられているというのに、動じる素振りは微塵も感じられない。

「ここには居ない。行き違いになったな」


「ボクは、彼女の現在地ヲ聞いていルのだけド。知らなイのデあれば、そノ回答は適切では無い。シらない、その一言だケで十分ダ」

思ってもみなかった指摘に、戸惑う気配がした。
返事をし直せというのならばまだしも、回答がおかしいと指摘されては「はぁ、そうですか」としか応じようが無い。困惑する兵士を盗み見ながら、ルークが苦笑を浮かべた。

「まぁ、その……シルビアの連れなら、屋敷の外まで案内するがね?」

それを聞いたイリスの声色が、微かに優しげに変わった。

「悪いネ、お気遣いドウも」

微笑を浮かべてはいたが、その目は一切笑っていなかった。
その視線は、ルークとウィゼルの隠れている壁へ向けられていた。

「何か?」

面倒事があっては困るといった類の感情が声色に滲んでいた。それを感じ取ったのか、イリスが漸く、人形のような顔面に”初めて”感情の欠片を浮かべた。

「何もないヨ。ナにもネ」

苦笑とも、呆れともつかない、判別に困るものだった。

庭園の奥へ三つの気配が遠ざかってゆくのを感じながら、ルークは微動だにしないウィゼルに首を傾げた。

「どうした?」

返答は沈黙で返された。先刻までとは違った様相をいぶかしく思いながら、ルークはウィゼルの言葉を注意深く待った。
「……気づいてる」

鉛のような空気が震えた。


「あの子供、とても嫌な感じ」
根拠は無いけれど、もう一度逢ってはいけない気がすると、ウィゼルは言う。

「気のせいである可能性は?」
「無いわね。完璧に気のせいだったら、こっちを見て微笑んだりしないもの」

「……微笑んだ?」

ウィゼルの言葉を
反芻
(
はんすう
)
しながら、ルークは首を傾げた。
「見てなかったの?」

「いや、暗くてよく分からなかった―――ただ、」


気付いたことが一つだけあった。イリスの体から漂っていた匂い。

何処かで嗅いだ覚えのある、薬のような刺激臭。奇妙な表情で立ち止まったルークへ、ウィゼルが怪訝な視線を向けた。


「何?」
「……いや、なんでもない」

「気になるから、些細な事でもいいから言って」


珍しくウィゼルが剣呑な声色で言い放ったのに、ルークが面食らってしまった。

「急にどうした?」
「いいから!」

その声は明らかに焦燥を帯びていた。ルークは視線を彷徨わせ、目を細めた。
あれを、どう言葉にしたらいいのか。結局口に出来たのは、酷く抽象的な言葉だった。

「……ウィゼルと初めて出会った場所と同じ匂いがした」

今度はウィゼルが首を傾げる番だった。

「いや、たぶん俺の気のせいだ」
胸中は気になって仕方がなかった。あれは、何の匂いと言っていただろうか。アサドならきっと、答えてくれる気がした。

「なっ、殿下!?」

庭園の端で、驚きの声が上がった。溜息と共にウィゼルが頭を乱雑に掻き毟ると、追いかけて来る足音を背に、二人は駆け出した。


「どうしてこう、一番面倒が起こって欲しくない時に面倒事が重なる……殿下もマルズィエフ様も、俺に恨みでもあるのか?」

髭面
(
ひげづら
)
の神経質そうな小男が、庭園の奥へ視線を向けてうめいた。


「俺の家庭を崩壊させる為にやっているのなら、俺は
謀反
(
むほん
)
を起こすぞ」
「お二人共そのような意図をもって隊長を困らせている訳では無いかと」

隊長と呼ばれた男の背後に控えていた兵士が、呆れたような口ぶりで言い捨てた。
つい最近、屋敷の守備隊として雇われた新参者。見た目の若々しさとは裏腹に、世の享楽に飽いてしまった老人のような面相をしている。その彼へ、アスワドが、がなり声で応じた。
「んなことは、言われなくても分かってる」


新参者がアスワドへ冷ややかな視線を投げつけた。面相にはありありと、アスワドに対する非難が現れている。
「……私的な方面で、何か?」
「今日は俺と嫁の結婚記念日だ、わかるか」

「結婚の経験がありませんので、解りかねます」


新参兵からの気配が、さらに刺々しいものに変わったのを感じながらアスワドは続ける。

「なら覚えておけ、夫婦の記念日を忘れるな」
「それは
先達
(
せんだつ
)
としての忠告でしょうか」

「そうだ」


交際期間中に見抜くものではないかと言いたげな視線を、アスワドは見なかったことにした。
上に立つ者としての矜持が彼の邪魔をしたからだ。

「記念日ばかりではないぞ。嫁や子供の誕生日も忘れるな。祭りなどという季節の行事や冠婚葬祭もな。そいつを怠ると家庭内どころか社会での居場所を失うことになる」
「それと今の騒動に、何の関係が?」


いいからいいから、胸に刻んでおけ新参者よ。抗議の視線など構いなくアスワドは話し続ける。まるで、胸に溜まった鬱憤を晴らすかの如く、流暢な言葉となって吐き出されるそれへ、新参者は
辟易
(
へきえき
)
しきった表情を浮かべた。

「世間なんてまだ良い、嫁を怒らせてみろ。怖いものだぞ、あれは。うちのなんて特に酷い。理不尽の塊だ」
「……弓矢でも射られますか。それとも刀剣で襲いかかってきますか」

「そこまでではないが、鍋と皿が飛んでくる。割れたら俺が弁償しなければならない。しかも最近じゃあ息子の態度も寒々しくてだな……いやまて、旦那を弓矢で射るような嫁がいるのか?」


信じられない面持ちで伺うのへ、新参者は無表情で頷いた。

「子供の頃、近所の夫婦がそのような喧嘩をしていたのを見たことがあります」
「すまないが、どういう生まれだ?」


遊牧の民
(
ベドウィン
)
でした。カムールの」


アル・カマル皇国とアル・リド王国の国境に広がる砂漠を思い浮かべ、アスワドは同情するような眼差しをした。

「五年前は大変だったな」
「はぁ、お陰様で」


声色とは裏腹にきつい視線を返してくる新参者から、アスワドは避けるように背を向けた。胸中では雑談を始めた事への後悔が早くも芽吹き出している。
「いや、まぁその……貴様は北口の庭園に行ってこい。なるべく殿下は傷つけるな。小娘は多少荒く扱っても構わん」

「それこそ無茶な話です。殿下はイダーフ様と肩を並べる程の腕前。無傷で捕獲するのはとても……」

「殿下はうちの嫁と違って、聞き分けのよい方だ。限度も理解しておられる。問題はない」

「隊長の嫁と殿下を同列に扱って良いものなのでしょうか……」

「随分賑やかダネ」


足元で、聞くに堪えない酷い声がした。

「貴様か」

先程まで苛立たし気にしていたアスワドから、表情が消えた。新参者の兵士が怪訝そうな表情を浮かべ、口を閉ざした。


「今度は子供か」


「この子も、イリスとイウ。そうヨんでほしいネ」

イリスが口だけ笑みの形に歪ませる。それが微笑みだと理解したのは、アスワドしかいなかった。

「貴様は見る度に姿が変わるから、判別がつかん」


「仕方が無い、ボクらはこういウものだから―――とこロで、手伝って上ゲようカ。キミの大事なヒトの記念日ノため二」

イリスからの提案を喜ぶどころか、アスワドは全く気の進まない表情を浮かべた。

「あまリ嬉しソうではなイね?」


「酷い声だ、まともに喋れ」


「まともサ。起きたばかリだから、ちょっと声が変なんダ。じきに慣れる」

で、どうすると、イリスが首を傾げた。

確かにイリスは適任だ。問題を早期解決に導くのなら、うってつけだろうとアスワドは思っていた。だが、一方で彼の悪評が気がかりでもあった。

「……貴様は少し遊びが過ぎる」


「僕はイつでも真剣サ」

 アスワドが黙りこんだ。

果たして、イリスを信じて良いものだろうか。頷くのは容易いが、信じるのは難しい。
彼は命じられた事を純粋に、”その通りに”遂行する。しかし、融通が利かない節があった。

「殺さんだろうな」


「安心して良イ。誰も殺さない。無害化するだけダ」

無害化。なるほど便利な言葉だとアスワドは思った。
どのような方法で、どの程度無害化するのか。
繩でも使って捕獲するか、武器を奪ってしまうか、或いは罠で行動そのものを制限するのか、或いは半死半生にでもするのだろうか。兵士が同じ言葉を口にしてもアスワドは特になんとも思わなかっただろう。

イリスだからこそ問題だった。その理由を、アスワドは嫌になる程、耳にしていた。

「殺さず、怪我もさせるな」

漸く絞り出した声は、苦渋に満ちていた。イリスが肩を竦めて頷いた。ややあって、傍らで直立したまま微動だにしない新参者の兵士へ、イリスが視線をやる。

「キミも来ルかい。ええと、」


「イスマイーラと申します」

新参者と呼ばれた男が無表情を張り付け、背中を向けたイリスに首を垂れた。

「宜しク”イスマイーラ”」

イリスが奇妙な笑みを浮かべ、早々に闇の中へ姿を消した。足音は無く、気配も無かった。
その背中を、薄気味の悪いものでも見るかのように、イスマイーラが顎で指した。

「何ですか、あれは」


「シルビアの仲間と言うんだ、あの姉ちゃん絡みだろうさ」


「エル・ヴィエーラ、ですか」


「あぁ、不気味な国の、不気味な―――」

あれを人間と言っても良いのだろうか。アスワドは迷った。結局零れたのは、月並みな言葉でしかなかった。

「人間だよ」


背後から響く物騒な叫びに、ルークは思わずため息を漏らした。
どうやら難儀な方に軍配が上がってしまったらしい。心のどこかで何事も無く、すんなりと出て行けたら。わずかでも甘い幻想を抱いてしまった分、落胆は否めない。

(これで剣を取る羽目になったとしたら、今日はついている)

良い方向では無く、悪い方向に。

「どうせこうなるんだろうと思っていた」


「貴方が逃げるって選択したんだから、そりゃあ」

ためらいなく背後へ矢を向け、後ろ向きに走ったまま
弓弦
(
ゆづる
)
を引く。

「最終的に、こうなるわよ」

奇跡的に矢を避けた男が暗がりの中で転ぶ。その背後から走って来た男も、転んだ男につまづき、もんどりうって倒れ込んだ。

「怪我をさせるのは控えてほしい」


「当ててない。当たってくるの、向こうが!」

何事かと駆けて来たもう一方の兵士へ、ウィゼルが続けざまに矢を放つ。

闇の中で放物線を描き、防ごうとした兵士の腕を通り抜けて太腿を刺し貫く。背後で上がった情けない悲鳴に、ルークは耳を覆いたくなった。

草むらから飛び出してきた男を鞘で殴り、昏倒する彼の傍らをルークとウィゼルが走り抜ける。

「面倒が嫌だと言いながら、貴方も容赦無いわよね」


「誰かさんが無茶をやらかしてくれたお陰で、こうせざるを得ないんだ」

ウィゼルが剣呑な視線をルークへ寄こした。

「誰かって、誰かな」
「心当たりが無いのか、とぼけているのか」

ウィゼルの腕が、ルークを引き倒した。

ルークのいた空間を鋭いものが凄まじい速さで通り抜ける。何を放たれたのかと確認する暇もなく銀閃が飛び込んできた。それを、ウィゼルが弓を打ち振るい叩き落す。
足元に転がったそれは、短剣だった。
手に収まる大きさの何処にでもある短剣。何の変哲もない刃の柄が、何者かの指の形に歪んでいた。

考える間もなく、ウィゼルは矢を射った。それは放物線を描き、闇の彼方へ突き刺さるはずだった。
聞こえてきたのは悲鳴では無く、生木の裂けるような音。

「脱走ごっこカい、ボクも混ぜテくれヨ」

その声にウィゼルが明らかな警戒の色をにじませた。余裕を失った視線は声の主へと、向けられている。

その主は子供だった。
松明に照らされた髪は青く、瞳は金色に輝いている。中性的な面差しには、十代前半のあどけなさが宿り、血色の無い肌は透き通ってみえた。

その顔面には、稚気とした闘志の色が浮かんでいる。まるで、武術を覚えたばかりの少年のような表情。

(これが、イリス――――?)

彫りの深いエル・ヴィエーラ人特有の面立ち、生気を宿さない人形のような白い肌、珍しい青い髪と金瞳。まるで複製でもしたかのような。
歩み寄ってくる彼の容貌に、ルークは虚を突かれた。
数日前に出会ったルーシィと瓜二つの容貌をしていたのだから。

「皇族だカらっテ、勝手気ままにやって良イもんじゃナいよ」

応じる言葉も無い様子に、イリスが片眉を上げた。


「御屋敷二帰リなヨ」

イリスは歩みを止めない。あの独特の香りが、むっと、香った。

鼻につく、薬を

(
いぶ
)
したような匂い。イリスから漂ってくる香りの正体に、ルークは漸く思い至った。

魔のゆりかご―――ウィゼルと出会った、あの場所と同じ匂いがした。

「そんな二難しいオ願いじゃアないんだケどな」


「部外者が口を挟むな」

イリスが大仰に肩を竦めた。

「残念ながら関係者でネ。ボクとしては非常にクダラナイんだけれど、協力シテあげないトいけなイ」

ルークの表情が、闇の中で冴えないものに変わる。その言葉は、脱出計画の失敗を意味していた

(いや、まだ諦めるのは早い)

隣で弓弦に手をかけたままのウィゼルを一瞥する。両手には弓と矢。そして犬笛を咥え、厳しい表情を浮かべている。そのウィゼルと目が合った。

二人は小さく頷きあう。考えることは同じだったらしい。
背中を伝う嫌な汗を感じながら、ルークは剣の柄を握り直し、下段に構えた。

「それが、キミの答エ?」


「だとしたら?」

イリスが背筋を伸ばし、準備運動でも始めるような口ぶりで言った。

「仕方なイ」

短剣をおもちゃのように弄び、一挙動で放り投げた。
回転しながら飛んでくる短剣を、ルークは上体をわずかにそらして避ける。
標的を失った刃は背後にあった壁へ、深々と突き刺さった。

「話し合イは、止めルよ」

闇の中で氷のような殺気が走った。



胸を締めあげてくるような威圧感は、直ぐに衝撃と粉塵にとって代わられる。その様は、疾走では無く、
吶喊
(
とっかん
)
だった。

またたく間にルークとの距離をつめ、イリスがもう一本の短剣を抜き放つ。


とらえる事すら難しいほど素早いそれを、ルークは紙一重で避けた。嫌な汗が噴き出してくるのを感じながら、ルークもまた、動いていた。
迫ってくるイリスの腹へ突きこむように剣を振る。当たれば無事では済まない一撃を、イリスは軽々と避け、空いた手でウィゼルの放った矢を掴み放り捨てた。

その様に、ルークとウィゼルは唖然とした。


「そら、歯を食イしばっテいナいと、死ヌよ」

戦いの場には不釣り合いなほどの呑気な声。容易に二人を制圧できる実力があるからこその余裕。

殺意のこもった一撃が、ルークへ肉薄する。それを、ルークは鞘を盾にして防いだ。剣が壊されてしまいそうな程の衝撃は、ルークの身体を易々と吹き飛ばした。
背中を強かに打ち付け、あまりの痛みに呼吸を忘れる。

イリスが、あっ、という表情を浮かべ、手にしていた何かを放り投げた。やけに短くなった短剣が足元に転がった。彼が使っていた剣の残骸だった。

そのさまに、ルークは目を剥いた。


(冗談じゃない。なんだ、こいつは!)

 子供の外見をしているくせに、力は屈強な大人の男を軽く凌駕している。
自らの武器が壊れるほどの力を持つ者を、ルークは見たことも、聞いた事も無かった。

死角から放たれるウィゼルの矢をことごとく叩き落すその様も、尋常ならざるものを感じる。
まるで、後頭部に目玉でもついているような。

ルークはイリスに対し、形容し難い怖気を感じて青褪めた。

(単純に腕力が強く、戦い慣れしているだけの子供なんてもんじゃない。こいつは―――化物だ!)

 イリスが掌底突きを放つ。斜め下から上に突きあげるようにして放たれた拳を、ルークは間一髪で避けた。
勢いのままに放たれた拳が標的を見失い、ルークの背後の壁へ叩きこまれる。
凄まじい衝撃と土埃に、思わず目を閉じた。

幾許
(
いくばく
)
かの動揺と共に薄目を開けてみれば、イリスの拳が壁へめり込んでいた。

「止めるナら今だヨ」

涼しい顔で壁に大穴を開けたイリスの姿に、ルークは恐怖した。


「……それは、脅しか?」

イリスは感心したように口笛を鳴らし、目を細めた。

「こうすルと、大抵の人ハ失禁するカ気絶するか……とってモ素直になっテくれルんだけド……キミ、案外胆力あるね。ひょっとシて、こウいうの慣れテる?」

やれやれといった風体で、めりこんでしまった拳を引き剥がす。イリスの手は、無傷だった。

「今のウチに、いう事を聞いテクレた方が、ボクとしては嬉しいんダけどな」

お願いをするような表情でルークへ手刀を放つ。イリスに対する怖気のようなものを感じ、ルークは表情を強張らせながら鋭い突きを避けた。
呼気を整える間もなくイリスの蹴りが放たれる。その全てを、受ける事無く、間一髪でかわし、後退する。
ウィゼルの見立て通りだったと、ルークは内心で後悔していた。

イリスの足を封じるために剣を振り下ろす。それを、あろう事かイリスは左手で受け止めた。

「化け物か、お前は」

素手で刀身を受け止めたイリスへ、ルークは苦々しげに吐き捨てた。

「よく言ワれル」

イリスの手は、しっかりと刃を握っていた。掴まれた剣が、万力で固定されたように、ぴくりとも動かなかい。その剣から、嫌な音が聞こえた。

―――生木の裂ける音とは明らかに違う、金属の軋み。

それが何なのか察したルークは、顔面に焦りの色を浮かべた。

「忠告を無視スるのハ、キミのお兄さんと、ソックリだ」

イリスは穏やかに笑んで言った。

「兄弟ハ、似るンだネ」


ぞわり、とした。

ルークは、とっさに剣を手放した。
明確な殺意の含まれた一撃を、ルークは受ける事無く避けた。

誰にも受け止められなかった一撃が、銀の光をまき散らしながら屋敷の壁を
穿
(
うが
)
つ。



それはルークがイスマイーラから手渡された剣の残骸だった。

剣の上半分は壁にめり込み、もう半分と柄は粉々に砕けて無残な姿を晒している。
その様を見て、ルークは途端に笑いだしたくなった。

魔族として追われる立場に成り下がった自分よりも、遥かに化物らしい化け物が目の前で、平然と、追われる事無く生きているという事実にある種の自虐的な可笑しみを覚えた。
噴出するかのように湧き起こった感情は、同時に、血で上りきったルークの頭を冷やした。

「……気でも触レたかイ?」


「俺は、正気だよ」

イリスが厄介そうに目を細めた。

「そウか」

貫手を放つ瞬間、イリスが止まった。拳を突き出した姿のまま、身体を止めていた。
その理由を、ルークはやや遅れて理解した。二人のものとは異なる怜悧な殺気が両者の間に佇んでいる。

「そこまでです」

その声は、ルークにとって嬉しい乱入者だった。

長身痩躯の、見知った背中と声はまさしく探していた人物。ルークの口元が微かに緩み、やがて強張った。

「随分遅カったね、イスマイーラ」

イリスが、松明の炎に照らされた白刃と、その主を見上げ、一人一人を確認するように周囲を見回した。

「何の真似カナ?」


「ご自分の胸に、お聞きになればよろしい」

尋常ならざる力を余すことなく見せつけたイリスを、ただの子供だと評する者は、この場に誰一人としていなくなっていた。
取り囲んだ者達の誰もが、ルークではなく、イリスへ剣の切っ先を向けていた。


「兵力ヲ一か所に集中するノは、警備上宜しくないのデはナいかなぁ」

身も凍るような数多の殺意と敵意を向けられているというのに、イリスはさして表情を崩すことなく、実に暢気な声を上げた。

「アスワドに怒らレルよ?」


「はぐらかさないで頂きたい。一体、この惨状はどういう訳ですか。殿下を無傷で捕獲しろと命じられていたはずです」

静かな怒りに満ちた声と、咎めに近い眼差しを向けられ、イリスがばつの悪そうな表情を浮かべた。

「忘レてないよ。キミ達が来るマで、遊んでタンだ。”じゃれ合い”というヤツだよ。そウ、怒らなイで」


「じゃれ合いにしては、随分と暴れたようですね」

鉄屑にされたばかりの剣の残骸を一瞥し、イスマイーラが表情を険しくした。


「じゃれ合イだかラさ。元来、そういウものだロう。犬や猫も、じゃレ合う時は周囲を滅茶苦茶に壊すモのダ」



詭弁
(
きべん
)
ですか」

イスマイーラの静かな叱責に、イリスが溜息を吐いた。

「……悪かっタよ。でも、そモそも、キミが遅かったカら」


「言い訳は結構です。これからマルズィエフ様とアスワド隊長がいらっしゃいますから、弁明は彼等へどうぞ」

マルズィエフの名を聞いた瞬間、イリスはあからさまな渋面を作り、口を閉ざした。

「イスマイーラ、わけを訊ねて良いか。何時からここにいる。いや、お前はマルズィエフを知っていたのか」


「それは―――」


「殿下に剣を向けるとは、何事か!」

イスマイーラの応えをかき消した怒声は、ルークが一番会いたくない男のものだった。
肩を怒らせ、地を揺らすような足取りでやって来たマルズィエフに、ルークはおもわず苦い表情を浮かべた。

「即刻、剣をおさめよ!」

兵士達が一斉に剣をおろし、硬直したように起立する。顔を真っ赤にしたマルズィエフが、イリスへ怒鳴った。

「貴様もだ、西方の蛮族め!」


「蛮族じゃアなイ。イリスという名前デ呼んでホしイね」

イリスの鋭い眼光がマルズィエフを射抜いた。マルズィエフの口元が僅かに痙攣する。
喉元まで出かかった雑言を無理やりのみ込み、我慢する風な面相を浮かべた。

「蛮族に発言を許したつもりは無い」


「へぇ、お伺いガ必要だっタかナ」

その声は険悪そのものだった。その理由を、この場に居た誰もが数秒後に理解した。

「最低限の礼節も守らぬ蛮族にかけるべき言葉など無い。我が口が穢れるわ」


「言ウね。金と権力だけがキミの取り柄だから、シルビアに生かさレていルだけナのに」

隠そうともしない殺意を、マルズィエフが鼻で嗤う。

「皇族に剣を向ける愚行を犯した貴様は、もはや客分ではなかろう」


「ボクがシルビアの客デなかっタら、キミを殺してイたヨ」

イスマイーラが意味ありげな視線をルークへなげかけた。ルークが諦めたような表情で首を振ると、剣をおろした。

「殿下、お怪我はありませんでしたかな」

マルズィエフの、優しい声色に薄気味の悪さを感じ、ルークの表情が陰った。その表情を勘ぐったマルズィエフが、加齢によって弛みきった目を大きく見開いた。

「医師を呼んで参りましょう。あれほどの目に遭ったのです、なんでもないという事はありますまい。さ、遠慮なさらずなんなりと仰れば宜しい」

 朗らかに表情を崩してみせるマルズィエフへ、ルークは努力をして沸き起こって来る感情の全てを胸の内に押しとどめようとした。

 ――――――出来なかった。


「マルズィエフ、芝居はするな」

ルークは、きっと、マルズィエフを睨んだ。相も変わらず、マルズィエフは困り顔を浮かべている。
けれど、その目の奥に闇が広がっているのを察してしまった。

彼の抱く感情の一端。自身の”勘繰りが間違っていなかった”ことへ、ルークは表情を苦くした。

「なにか、勘違いをなされておられるご様子」

表情
(
かお
)
から一切合切の感情を消したマルズィエフを、ルークは悔しげにみつめた。

「お前が部屋を出て行った後、

(
かんぬき
)
をかけたのは俺の勘違いだったのか?」

マルズィエフの表情が歪んだ。やがてその通りだと認めるように、大きな溜息を吐いた。

「苦渋の決断でございます」

「苦渋?」

「左様にございます。殿下は既に、皇子たる立場ではない。魔族となり、権力も富も、いずれは得るはずだった名声も今やございません。その上、剣も破壊された殿下が、わざわざ国境に出向かれて一体何が出来ましょう。それが分かっていながら、まだ説得に向かわれるなどと気の触れたことを申し上げているのは殿下、貴方様でございます。」

「俺は気など触れていない。分からないのか、マルズィエフ。アル・リドはもう、我が国に兵を出しているんだぞ?」

「それならば、殿下の兄君に任せておけば宜しいと申し上げている」

ルークは苛立つように頭を掻きむしった。

(いまでなくては意味が無いというのに!)

どうしてマルズィエフは分かろうとしないのか。
いや、分かっていながら敢えて止めているのか。どちらだと声を荒らげる。

「お前は、我が国が滅ぶまで俺に屋敷で大人しくしていろと言いたいのか!?」


「いいえ、期をみるのでございます!」

機会はある。それまで何故待てないのだとマルズィエフは大きくかぶりを振った。

「殿下が仰られている事。それらすべては殿下にお立場というものが有られればこそ効力を発揮するもの。失礼ながら今の殿下にはそれが無い。皇子ですらない今の殿下に何が出来ましょう」


「出来る!」


「出来ぬのです。乞食が兵を率いるなど不可能であるように、今の殿下が兵を率いることは出来ぬのです。もしできたとしても、後に誅されましょう」

イダーフの手で。マルズィエフの言葉は正論であった。全く反論できる余地が無い。
だからこそ、ルークは悔しがるように歯を噛みしめた。

「そうであれば、何が先ず必要か。一刻も早く殿下へ注がれた罪と汚名をそそぎ、第二皇子として再び城へ戻って頂かなくてはなりますまい」


「お前に、それが出来るのか」


「お任せあれば。殿下の罪も、汚名も、お立場もたちどころに取り戻してみせましょう。お望みの兵をお貸しすることもやぶさかではございません」


「ではそれまでに、どれほどかかる」


「とは?」


「どれほどの時間がかかると聞いている」


ルークの罪と魔族と言う汚名、そして皇籍抹消の取り消しにどれほどの時間がかかるのか。
一日、二日ではないだろう。早くて数年の時。遅くて――――いいや、その日など来やしない。
マルズィエフの言葉は
詭弁
(
きべん
)
でしかないと、ルークは切って捨てた。

「仮にお前が俺の立場とやらを取り戻せたとしよう。それまでにアル・リドは我が国への侵攻を進めているだろう。国境に隣接するカムールはもちろん、我が国で最も頑強な要塞のある硝子谷などは堕とされているかもしれない。もしかしたら、皇都目前にまで迫っているかもしれない。そうなったら、何もかもが手遅れなんだ。
そうなる前に手を打たなくてはならない。俺の立場などよりも先にだ!」
マルズィエフを、ルークは睨んだ。

「お前にはあるのか、廃嫡された俺の名誉を取り戻し、隣国の侵攻を止めるための策が。いや、あるはずがないな?」

臣下が廃嫡された皇子の名誉を取り戻し、あまつさえ隣国の侵攻を止めるなどという都合の良いことなど出来るはずがない。

もし、それを可能とするなら――――今は亡き父スレイマンか、それと同等の強い外的圧力でしかない。それを、マルズィエフはどうして変えられると言い張れるのだろう。

「わざわざ無駄な労力を払って、廃嫡された皇子など担ぎ上げても骨が折れるだけだ。
なら、聞こえの良い言葉でカダーシュを持ち上げた方が楽で、労力も少なくて済む。でもお前はそれをしない。何故だ?」

イダーフの配下であればルークが廃嫡されているのも、それを覆すのも難しい事などすぐに判断出来るというのに。マルズィエフは終始、ルークを皇子として扱った。

「マルズィエフ、なぜそうまでして俺にこだわる?」

当初は、幼い頃から慣れ親しんだ間柄であるからなのではと思いもした。
本当に隣国に利用されかねないのを危惧して、良心から引き留めようとしたのかとも思っていた。
しかし、マルズィエフの言い分は、どちらも違うような気がしていた。

「もしや、
鉄女神
(
マルドゥーク
)
か?」

マルズィエフから、表情が消えた。

「なるほど。エル・ヴィエーラと関わりを持っているだけでは確証を得られなかったが、納得した。そうか、
鉄女神
(
マルドゥーク
)
か」

マルズィエフが苦々しい思いを吐き出すように頷いた。続く言葉で、ルークは拳を白くなるほど握りしめた。

「我々に必要なのは、詳しい者に
鉄女神
(
マルドゥーク
)
が我が国の兵器として扱えるのかどうかを見極めて頂くこと。それには、殿下のお力が必要となる。もし、
鉄女神
(
マルドゥーク
)
を動かすことが出来れば、我が国はあの二大国に脅かされずにいられるのです」



「―――だから、俺をここに引き留めようとしたのか」


「女神をお目覚めさせられるのは、貴方様以外におられますまい」

ルークの
目尻
(
まなじり
)
が吊り上がった。

「儀式の結果まで知っているか。司祭長とも通じていたな」


「左様にございます。
鉄女神
(
マルドゥーク
)
こそ我が国の要であり、我が国が脅威に晒される元凶であり原因でありますれば、それに関した殿下を誰が他国へお渡ししましょう。我が国の為なのでございます。
エル・ヴィエーラを利用するのです。なにせ我が国の遺産―――
鉄女神
(
マルドゥーク
)
は、」


「黙れ!」

 ルーク自身ですら驚くくらいの怒声は、忘我を誘う合図だった。

「我が国と父上へ忠誠を誓ってから先刻まで、貴様は何を見聞きしていた。我らの女神への要らぬ
詮索
(
せんさく
)
と作為をもち、最も厄介な隣国を自らの手で招き寄せ、あまつさえ守るべき我が民と、皇族をも利用しようとは。貴様何様のつもりだ!」


「それは殿下の母君、シャリーア様の血筋が
鉄女神
(
マルドゥーク
)
に関わりがあると―――」


「誰から聞いた!」

 凍り付いた怒声を響かせたルークへマルズィエフが顔を赤黒く染め、絶句した。

「二度は聞かない、答えろ」


「き、協会のシルビアという女からでございます」

全く意外性の無い答えに、ルークは表情を消した。

「即刻エル・ヴィエーラからは手を引き、貴様はこの事を忘れろ。この場に立ち会った者も例外なくだ。出来ぬのなら貴様自ら全員の首を斬り、自らも死ぬか?」


「それは、あまりにも」


「どちらだ!」


「……協会と
鉄女神
(
マルドゥーク
)
からも手を引く所存でございます」


「ならば誓え、忘れろ。金輪際、
鉄女神
(
マルドゥーク
)
には触れるな」

苦渋と恥辱に耐え切れぬ感で、マルズィエフがうつむいた。貴族であるマルズィエフにとっては、人前でこれほどの侮辱を受けるのは生まれて初めてのことだった。
面目を潰された怒りに身を戦慄かせ、辛うじて応えようとした。出来なかった。

「されど、見過ごす訳には参りませぬ―――殿下を取り押さえろ、多少強引であったとしても、私がさし許す」

その声に、どよめきが生まれた。
困惑を露にする兵士同様に、アスワドもまた戸惑いを隠せずにいた。マルズィエフは命じてはならないことを命じている。
皇子へ刃を向けてでも止めろとのたまう彼は、マルズィエフは正気か?

辛うじて喉元からひり出したのは、遠回し過ぎる諫めだった。

「仰られる意味が分かりかねます」


「殿下を捕らえるのだ!」

マルズィエフの声は、周囲にいた者全てから思考能力を奪うほどの強制力に満ちていた。
アスワドはおろか、イスマイーラや、ウィゼルですらも身を竦ませた叫びを、ルークのみが冷ややかに眺めている。

「お前も俺を止めるか、イスマイーラ」


「いえ、合流する機を伺っておりました。ご無事で何よりです」

イスマイーラが反射的に応じた。職務に忠実であろうとする意志が、彼の体を反応させたらしい。
弄んでいた剣を中段に構え、アスワドとマルズィエフへ向き直った。

「最初から殿下と共謀していたか」

今更ではあるが不審な点がいくつもあったと、アスワドは得心がいったように呻き声を漏らした。
たった数日前にやって来たばかりであるのに、当主であるマルズィエフに取り立てられ、破格の速さで私兵入りした。正規の手続きを取っていれば一カ月は必要なものを、たった一日で飛ばした。

妙だと、アスワドは思っていた。そして、ようやく納得した。
イスマイーラが第二皇子の護衛であるのを、マルズィエフが知っていたのなら、不思議でもなんでもない。

「酷い気分だ。詐欺に遭った気分というのは、こういうのなんだろうな」


「こういう形になってしまったのは、至極残念に思います」

イスマイーラが苦笑する。アスワドがそれに応えようと口を開きかけ、何事かを呟いた。

「捕らえよ!」

マルズィエフの怒声は、合図となった。


三人を囲う兵士達から放たれた矢が、雨の様に降り注ぐ。
暗がりからあらぬ方向へ放たれた矢をイスマイーラが叩き落し、隙を突いてやって来る兵士を剣で苦も無く叩き伏せる。
その彼が叩き落した矢数は、非常に少なかった。

矢の雨が降り注ぐと同時に、数名の兵士が逃げ出したからだ。彼等は皇族に刃向かうことを恐れた。
マルズィエフの私兵達は、一気に仲間を数十名も失った。

残りの数名はウィゼルの矢に倒れ、更に残りの数十名は味方の矢に

(
たお
)
れた。
暗中に背を向けて逃げ出す姿にマルズィエフが罵声を投げつけるけれど、聞く耳を持つ者は誰一人いなかった。

「キミは戦わなイのかな」

苦悩に満ち満ちた表情で歯噛みするアスワドへ、イリスが面白げに問いかける。
態度は観劇している客のそれだった。

「主か皇族か、どちラへ味方してもキミには、利が無さそウだね。こレは悩ましイ」


「黙れ。エル・ヴィエーラである貴様も知っていたのだろう」



鉄女神
(
マルドゥーク
)
の事かい。それとも、
第二后妃
(
シャリーア
)
のことかい」

いずれもだという沈黙の応えへ、イリスが苦笑で応じた。

「安心しテいい。エル・ヴィエーラで、このことに気付いていル人間は、ボクを含めて数人しかイない。国の上層部はアル・カマルを辺境の小国としか思っテいないし、協会の上層部もほぼ似たような考えサ」

味方から流れて来た矢を掴み、イリスは無造作に放り投げる。
投げられた矢は誰もいないはずの地面に落ち、踏み折られた。

「キミがまごついてイるから、来ちゃっタ」

イリスが脈絡もなく呟いた。その表情から先刻までのふざけた笑みが消えていた。

耳をそばだてなければ分らない程の、微かな獣の吐息。
巨大な気配が、闇の中で身を潜めていた。
じっと、こちらを伺っている気がする。いや、気のせいではなく、居るのだ。すぐそこに。

アスワドは恐る恐る振り返った。

暗がりの中で一瞬、何かが光った気がした。

(松明の光ではない)

それにしては大きすぎる。

「――――何が?」

イリスが気配を顎で指した。微かな獣の唸り声に、アスワドが身を強張らせる。

「怠慢ガ悲劇を招いタ」

 唸り声に呼応したウィゼルが、満面に喜色を浮かべて叫んだ。

「アルル、おいで!」

ウィゼルの呼びかけに応えるように、竜の咆哮が上がった。兵士の一人を貫手で倒したばかりのルークが、口元を緩ませる。

「間に合った!」

地響きにも似た恐ろしげな咆哮は、幾人かの兵士の手を止めるには十分すぎた。

途切れた矢の雨を見計らうように、竜が二人の頭上を飛び越えた。
強靭な後ろ足が、兵士の一人を巻き込んで着地する。
一瞬で叩き潰された味方に、兵士達が立ち竦んだ。そして、乱入してきた獣が竜であると認識した刹那、鞭のような尾が彼らの腰骨を砕いた。
悲鳴と、戦吼が重なる。泡を食う兵士達の遥か後方で、マルズィエフが叫んだ。目は血走り顔は精彩を欠いている。
彼の周囲には更に四人の兵士が取り囲んでいたが、四人とも引け腰だった。

その剣の切っ先は、イスマイーラと竜へ向けられていた。

しかし、誰一人として刃向かおうとする者はいなかった。じりじりと後ずさりをしながら必死で退路を探している。

片や、ただ動きまわるだけで兵士が吹き飛ばされ。

片や凄まじい剣戟と弓矢によって死傷者の山が出来上がりつつある。

間断なく上がる悲鳴と剣戟の音。
その度に、マルズィエフは巨躯を戦慄かせた。その様へ、イリスが失笑を漏らす。

「彼は、解りやすいネ」

一言だけだったが、それに含まれた感情は、あまりにも多い。

あまり宜しくない感情から発せられた言葉だ。傍らにいたアスワドすら一瞥してわかる程の。
アスワドが、急に眉を顰めた。

それは、奇妙な音だった。


単調で鋭く、何かを擦り合わせるような音。
竜の呼気と微かな鳴き声が混じり、何とも言えない不協和音が半開きになった

(
あぎと
)
から発せられている。

「……興奮し過ぎてる」

 兵士を射抜いたばかりのウィゼルが、アルルの声に表情を曇らせた。

興奮というよりは何かに怯えているような。心なしか、アルルの尾の動きが固い。

背も丸く引け腰だった。
奇妙な鳴き声と愉快ならざる臭気を口から漏らし、感情の無い冷たい眼差しをイリスへと向けている。

「今は、アルルの前に出ないで―――絶対に」


それが竜からの警告であると、一体何人が気づいただろう。

竜がとある一点だけを異様に気にしているのに気が付いたのは、ウィゼルだけでは無かった。
アスワドもまた、竜の視線が傍らでつまらなそうにしている”彼”へ向いていたのに気付き、冷たい汗を流した。

「手遅れだ……」

皇子が逃げ出しただけでも頭の痛い問題だというのに、新参が手のひらを返し、挙句、竜までやって来た。そればかりか、暗闇の中での同士討ち。視認性が低い闇の中で皇子を包囲し、弓を用いるなど自滅してくださいと言っているようなものだった。完全な失策。何もかもが手遅れ。

何の手立ても無く、数だけで地上最強の戦闘生物を相手にしようとする事ほど愚かしい事はないと分っていたのに。

今や主の庭は、勇気と無謀をはき違えた馬鹿者と、賢明な逃亡者達で溢れていた。

「キミがあまリに愚かデ驚いたヨ」

 冷めた視線がアスワドを見上げていた。その視線が意味するところを、アスワドは判っていた。

「ああそうだ、俺は愚か者なんだよ。初手と引き際を誤った。それは認める」


「じゃあ、どうシて早々に退却しないノかナ」


「もう竜に距離を詰められている。手遅れだ。退却するにも、戦い続けても最終的な損害はさして変わらん。一部の兵士を捨て身の殿役に仕立てて、マルズィエフ様を逃がす算段しか思い浮かばなくてな」

そこが困りものなのだとアスワドは深い溜息を吐いた。

竜は、じきに牙を向けて来るだろう。竜の飼い主らしき少女は、笛を咥えたまま弓をひき、負傷者を山と築き上げている。

ひょっとしたら、竜を止める意志はあるのかもしれない。ただそれが、何時であるのかが、アスワドにとっては問題だった。

「貴様が代わりに竜をぶちのめしてくれるのなら、話は別だが」


「時間稼ぎカ。アの皇子様みたい二……まぁ、悪くはナイ」

イリスの思惑を知らないアスワドは、彼からの意外な提案に瞠目した。

「本気か?」

イリスであれば竜ですらも素手で倒せるかもしれない。焦燥しきった双眸が、精彩を帯びた。

崩れゆく包囲の中で、竜が矢の雨と刃に身をよじり、煩げに巨躯を震わせた。奇妙な鳴き声を響かせながら味方達を叩き伏せる姿はまるで、踊っているようにも見える。

「いいや、本気になって貰わなくては、困る……!」 

竜の喉が大きく
蠕動
(
ぜんどう
)
していた。

まるで何かを吐き出すかのような動きは、混乱の最中でもよく分かった。やがて、何かを察したかのようにアスワドが喚いた。

「全員下がれぇっ!」


竜の

(
あぎと
)
から猛火が吐き出された。

怒号と悲鳴、咆哮と叫びが混じり合う闇を煌々とした輝きが照らす。

表情を無くした者、憤怒と怖気に顔を歪ませる者、竜よりもイスマイーラに気を取られ、背を向けている者。その誰もが、一瞬で火にのまれた。

夜の空が朱と金色に染まり輝く中で、火柱が狂ったような奇声と悲鳴を上げていた。

剣と矢の雨が降り注ぐ庭は、たった一匹の獣によって苦痛と焔の惨劇へと変貌した。

「たった、一匹だぞ……?」

昏く深い何かへと沈み込むような声だった。

僅か数秒で。
たった一匹が吐いた火焔だけで、名も顔も知った兵士が六人も。


断末魔が。人の燃える臭いが。


苦痛に喘ぐ彼らの姿を直視し続けるのが耐え切れず、アスワドは顔を背けた。

「これではまるで、戦争ではないか……!」


「ほら、言わンこっちゃナイ。上が無能ダと、下は苦労すル」

 蔑んだ目つきで嗤ったイリスは、竜の吐き出した炎とは明らかに違う、赤い光をまとっていた。
彼のまとう微かな光の意味するところに気付き、アスワドは改めて恐怖を顔面に張り付かせた。

「魔族、だったのか……」


「少し違うケど、一応、肯定シておこウか」

その赤い光は、イリスを中心に広がっていた。

熱くも無く、痛くも無い。微かに枯れ草と錆び鉄を混ぜたような独特の臭気を帯びた赤い光の膜は、渦巻く炎から守るように二人を包み込んでいた。

「……まるで、繭玉みたいだろウ?」

イリスが信じられない面持ちのアスワドに微笑んだ。

これが
魔法
(
クオリア
)
。君達が危険視する魔の妙技。
病の大元に、アスワドは護られている。自覚した瞬間、アスワドの身が恐怖で震えた。

「キミたちを助けるツモリは、これっぽっちモ無かっタんだけど。暇潰しにハ丁度良いカ」

二人を包んでいたほの赤い光の膜が引き剥がされ、イリスと竜の間に収束した。

丸い盾の様に展開された光が、飛びかかって来た竜の牙を受け止め、硝子のように爆ぜる。
一瞬の出来事だった。


轟音と粉塵を撒き散らし、屋敷の壁が竜と共に瓦解した。

出来たばかりの穴蔵で、竜が苦痛に啼いた。
その穴の中から、棒のようなものが転がった。ルークの足元で止まったそれは、人の腕。

炭のように焼け焦げた腕に指は無く。表皮は炎で退縮し、裂けた箇所からは生焼けの赤黒い肉と、白なのだか、赤黒いのだか分らない骨が腕の半ばから突き出ていた。

それを眺めていたルークの表情からは、とっくに生気が失せていた。

同じだったからだ。

人とは思えぬ醜悪な叫びとその姿も。

命の燃え尽きる凶悪な死臭と炎の残り香も。

イブティサームを殺したあの日の光景と今が、ルークの頭の中で重なっていた。
呼気は否応無く無数の死臭を取り込む。
人毛と人肉の焼ける奇怪な臭いは肺を通してルークの全身を内側から死で埋め尽くしていった。

(これほど息を止めたいと思った事は、あの日以来だ)

逸らしてはいけない死に耐え切れず、ルークは眉間に深い皴を刻んだまま双眸を固く閉じた。
瞼の裏で火柱と人の残像が踊っている。

「人は脆いネ」

イリスが憐れみの情をルークへ向ける。巻き込まれた犠牲者への哀悼か。

化物然とした少年の顔には、なまの、人の浮かべる情が張り付いていた。

「キミにハ、大分刺激が強過ぎたカ。戦いってのは元来そういうモのデね。後世に英雄や、勇者などと呼ばれる奴ほど、ポンぽん死んデゆくものダ。戦争だと、特にね。死なナくても良い奴が死に、死ななけレバならない奴が生キ残る。もシかしタら心通わせられた敵も、杯を酌み交ワした仲間も。
嫌いだっタ奴も、好きダった人も。崇高な理念を持った人格者モ、悪辣ナ犯罪者も。
皆、惨たラしい死に方をすル。戦争ってノハ、大抵権力者ばかりが得をスるように設定されてイルもんでネ。狡い奴だけが生き残るのサ。マァ戦争ハ究極ノ人災だかラ?」

虚ろな赤い双眸と金瞳が交わり、逸らした。ルークはイリスを直視していたくなかった。

「ボクは、キミの考えを頭から否定すル気はナい。ムしろ、その想いだけは快いト称賛しても良い。キミには何の感情も無いけれド、少しだケ……本当にキミを引き留めタいと思っていル。キミが守りたいト思っている人達で作らレた 屍山血河など見たくはナイだろウ?」

確かにその通りではあった。屋敷を出ると決めたのも、守りたいと思う人達が死んでいくのを黙って見ていたくなかったからだ。

「見たくないから、そうなる前に出来る限りの手段を講じるんだ」


「それが、キミにあルと?」


「ある。だから、屋敷の奥で何も知らないふりをして過ごすのは、俺には出来ないし、したくない。そんなものは見殺しにするのと一緒だ」


こみ上げてくる吐き気を堪えながら、ルークはそれらの一切を唾棄するかのように吐き捨てた。
イリスが眉を顰める。竜の鳴き声は、何時の間にか唸り声に代わっていた。

「ッとに……大きな鳥に追いかけラれるばカりじゃあ、足りナイんだな」

イリスが哀しげに苦笑を漏らし、左手を掲げた。

赤光の糸が紡がれた。糸は互いに、まるで編み物のように絡みあう。
瞬きの間に、それは完成する――――赤光の槍。
先端は尖鋭化され、穂先のように尖っていた。

イリスは目を細め、高々と掲げた腕を振り下ろす。
掴む者の無い槍が、穴の中の闇へ放たれた。同瞬、穴から影が飛び出した。アルルだった。

「今だ、射かけろ!」

誰かの叫びと同時に、四本の矢が影へ放たれた。

三本の矢を、イスマイーラとウィゼルが叩き落す。損ねた一本がルークの顔を掠め、背後の壁に突き立った。頬からじわりと、血が滲む。

ウィゼルがアルルの後ろからイリスへ向けて矢を放った。放たれた矢は二本。

一本は赤光の槍に飲まれて蒸発し、もう一本はイリスの額へ突き刺さった。


抵抗するでもなく、倒れそうになった自身の身を庇うでもなく。
イリスが頭から地へ沈む。
即死してもおかしくない怪我であるというのに苦痛に呻くどころか、無表情で首だけをルーク達の方へ寄こした。
彼の様相は、死の淵に立つ者が見える最後の光では無かった。
むしろ、何かを待ちわびる生者のそれに近い。

未だ光の失われていないイリスの双眸に、槍に貫かれる直前の竜と、ルークの姿が映っていた。

「間に合わない!」

ウィゼルが悲鳴を上げた。


術者
(
イリス
)
を殺せば
魔法
(
クオリア
)
も消えるはず。矢は、確実にイリスの脳天を貫いた筈だった。しかし、イリスの放った赤光の槍は消えるどころか勢いを増し、竜へ、そして、その後ろ。ルークへと突き進んだ。
殺意を凝縮した赤い光が竜の鼻面で突如分裂した。放射状に展開された光が竜の身体を迂回し、頭、背、尾を赤い閃光が通り過ぎる。

「―――っ!」

視界一杯に広がる光の中で、微かな恐怖心がルークの中で膨れあがった。

差し迫る光の奔流。イブティサームが炎にのまれたあの日と同じ光が、夜闇を赤に染め―――止まった。

それは何らかの意志が介在しているかのような、冗談じみた光景だった。

赤光の槍が、端から無数の糸状にほつれ、徐々に形を失ってゆく。
やがて形を保っていられなくなった光が砂くずの様に闇へ散った。

その光景に、誰もが目を見張った。

「……シュウタイセイだ」

額から矢を突き刺したままのイリスが呟いた。

「イリスでナいト、観測が難しくテね」

自らの腕の中で四肢を投げ出し、命潰えようとしている筈の彼の言葉に、アスワドは耳と目を疑った。脳天を貫かれて無事でいられる人間はまず、いない。

古今東西を調べ尽しても、不死の生物など存在しえないというのに。


イリスは、死んでいなかった。


まるで他人事のような口振りで語るイリスへ、アスワドは困惑の眼差しを向ける。

「一度活性化シたマナの阻害と強制転換。これはマナではナク
Ether
(
イーサ
)
か……成る程、そういう手品だっタか。因果作りには事欠かないなぁ、アルベルトは」


「お前はさっきから何を言っているんだ?」


「あの皇子様に怒られるこトダよ、アスワド隊長」

大きく溜息を吐くと、イリスはぽつりと吐き捨てた。

「そろそろボクは帰る。こレはソの辺に捨てていテも構わないけど、キミにイリスを投棄すルのは無理がありそうだナ。仕方ない。シルビアにでも押し付けテ」

イリスの声が、不意に途切れた。アスワドの腕の中からイリスの手がすり抜け、地面へ落ちる。
力なく放り出されたその手は、温もりなど最初から存在していなかったかのように冷たかった。

「……死んだのか?」

それとも眠ったのか。脈は無い。やはり死んだのだ。

わけもわからぬまま、ぽかんとしているアスワドの耳に、竜の唸り声が届いた。

かすり傷を無数に負った竜が、呆然と立ち竦む第二皇子の傍で牙を剥いていた。口の周りを黒いもので汚した竜と、目が合った気がした。

「……全員退避」


「しかし……」

アスワドの呟きに、傍に居た兵士が戸惑いの声を上げた。

「死にたいか?」

兵士が首を振る。その表情は、言葉とは裏腹な安堵が見て取れた。

「……全員退避、竜には触れるな!」

誰かの呟いた魔族という言葉をかき消すかのような怒号に、呆けていた兵士達が身体を震わせる。
戦場からほど遠い平穏の中、血生臭い死をまざまざと見せつけられた兵士達が、亡霊のように蠢き始める。遠くでマルズィエフが喚いていたが、今のアスワドには彼の言葉はどうでも良いものに成り下がっていた。

アスワドは、何もかもが信じられなくなっていた。

本来なら術者の魔族を殺さない限りあり得ないはずの
魔法
(
クオリア
)
の消滅。

イリスがうわごとのように言っていた、
Ether
(
イーサ
)
とは何なのか。そもそもマナというのも分からない。
通説では
魔法
(
クオリア
)
の素であり、病魔の名でもあるらしいが。それは
Ether
(
イーサ
)
と何の関係があるのだろう―――そして、皇子も。

燃え逝く人の残骸を放心状態で眺めていたルークを、アスワドは気味の悪いものでも見るかのように、仰ぎ見た。

 (皇族は、何かを隠している?)

アスワドは退却していく自分の配下達を、暗い面持ちで眺めていた。


「なにやってんの、あんたは……」

ウィゼルが興奮状態で戻ってきたアルルの鼻面を軽く叩いた。


素直にいう事を聞いてくれたのは、幸運だった。笛も効かないくらい興奮していたら、どうなったことか。甘えた声ですり寄るアルルをさすると、気持ちよさそうに喉を鳴らした。


マルズィエフを数人の兵士が取り押さえている姿を横目に、ウィゼルがルークを振り返った。

感情を何処かへ置き捨てて来たような面持ちで、虚ろな双眸を炎と、未だ燃え続けている黒い人影へ向けている。
微かに、ウィゼルが眉を顰めた。
(過去に何かあった。傷になってもおかしくない何か。そういう昏い目を、ルークはしている―――例えば、兄のような)
ルークの頬を、アルルが舐めた。

先刻までの獰猛さなど微塵も感じさせない優しい鳴き声は、まるで赤子をあやすかのようだった。
「―――おいで」
何故、突然そんなことを口走ったのか、ウィゼル自身でも分からなかった。
ただなんとなく。気まぐれというには重苦しい何かが、彼女に喋らせていたのかもしれない。

「一緒に行こう」
ウィゼルが苦笑を浮かべ、ルークへ手を差し出した。虚ろな赤い眼差しが微かに揺れ、ウィゼルの手を凝視する。かすり傷と土埃に塗れた汚い手を、ウィゼルは握った。

「硝子谷までは、送ってあげる」

驚くほど頼りない手を、ウィゼルは力強く握った。
ほんの少しの温かみに、ルークの頬に赤みが戻った気がした。
冷めた眼差しで微動だにしないイスマイーラを、ウィゼルは振り返った。
「さっきは助かったわ。ええと、」

「イスマイーラと申します。こちらこそ、貴女の弓と竜が無かったら危なかった」
「私も。貴方の援護が無かったら、とっくに斬られてた」

イスマイーラは二人と、竜を守っていた。飛んでくる弓矢を叩き落し、返す刃で斬りつけて来る兵士を躊躇いもなく屠る。

その剣術の凄まじさは剣術を齧った事しかないウィゼルですら、目を見張るもの。
彼の太刀筋は、隣国のアル・リドのものとよく似ていた。

「逃げよう、先行してくれるかな。今の殿下じゃあ、こっちが迷子になっちゃう」

「……誰が方向音痴だ。アルルの背中で案内くらいなら出来る」
不機嫌そうな声に、ウィゼルとイスマイーラが目を丸くした。
「まだ、走れますか」
「見くびるな。これ位で、音など上げるものか」

仏頂面で、アルルに舐められた頬を拭う。その姿を、松明の光と、命の燃え滓だけが冷たく照らしていた。

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